定家の時代、天智天皇の勅撰入集歌は二首あるのみでした。一首は後撰集の「秋の田の…」すなわち百人一首に採られた歌。もう一首は新古今集の「朝倉や木の丸殿に我がをれば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ」です。前者は万葉集巻十一の作者不明歌「秋田苅る仮庵を作りわが居れば衣手寒し露ぞ置きにける」の異伝とする説が有力であり、後者は催馬楽に原型を持つ歌で、いずれも天智天皇の真作とは信じがたいものです。
それはともかく、新古今集の撰者の一人であった定家は「朝倉や…」の歌の推薦人に名を連ねており、また『定家八代抄』にも採って、高く評価していたことが窺えます。一方「秋の田の…」の歌はと言えば、『定家八代抄』『詠歌大概』『近代秀歌』『秀歌大躰』『八代集秀逸』といった、百人一首以前に定家が編んだ秀歌撰のほとんどに採られており、評価の高さは比較を絶しています。歌の撰定についても、選択肢は他になかったと言えましょう。
しかしなぜ定家は「秋の田の…」の御製をそれほど高く買ったのでしょうか。
秋、収穫を控えた田のほとりの小屋で番をする我が袖は、覆いの苫が粗いので、隙間を漏れる夜露に濡れつづける――。
まず確認しておきたいのは、後撰集の時代も新古今集の時代も、この御製が天智天皇の残した題詠歌として鑑賞されたはずだということです。作者のなまな体験を歌うのでなく、定められた主題のもと、人物や場面を仮構して歌を作る、というのが当時の普通の作歌法でした。後撰集の配列からすると、「露」という秋の風物を主題とした歌として撰者たちはこの歌を採ったようです。しかし単に「露に濡れつつ」田の番をする農民の労苦を詠んだ歌と読むことはできません。
例えば天智御製によく似た歌が古今集秋歌に見えます。
古今集の配列からして《秋の田》を主題とした歌ですが、「穂に出づ」は「秀(ほ)に出づ」(思いが表面にあらわれる意)の掛詞とされた詞で、恋の心を含み持つことになります。天智御製も事情は同じこと、「とまをあらみ」が「間を粗み」と掛詞になり、恋人の訪れの間遠である意を響かせ、それが涙を暗示する結句と呼応することで恋の歌としての文脈を隠し持つことになるのです(この時、「かりほの庵」は、農事の仮小屋から、妻問い婚のために造られた仮小屋である《妻屋》へと変容します)。定家が「秋の田の」の歌を幽玄体として評価した(『定家十体』)のも、閨怨に涙する女の哀婉が余情として漂うことを感じ取っていたからでした。
かように、技法的には紛れもなく平安王朝ぶりの歌です。しかし、一首の詞つきを見れば、「かりほのいほ」の繰り返し、「苫をあらみ」のいわゆる《上代のミ語法》、結句の「つつ」止め、いずれも上代の歌に多く見られる語法で、定家の時代から見ても古風を留めた歌と言えます。初句から第四句まではo音を多く用いておおらかに流れ(akinotano karionoiono tomawoarami wagakoromodewa)、結句は対照的にu音が多く鬱々と沈んだ調子になり(tuyuninuretutu)、一首の調べはまことにうるわしい。いわゆる《至尊調》《帝王調》とはちょっと違うのですが(そもそも百人一首に至尊調の天皇御製は一首もありません)、上代の御製にふさわしい格調を具えているとは言えるでしょう。