ではなぜ猿丸大夫の歌が「よみ人しらず」とされてしまったのでしょう。この点については三好正文氏の『猿丸大夫は実在した!! 百人一首と猿丸大夫の歴史学』にみごとな解説がありますが、私なりにまとめさせて頂くと、次のようになります。
――古今和歌集はその名の通り「古」歌と「今」歌を合体させた集で、「古」歌は原則として「よみ人しらず」として採るという編集方針が取られた。古今集の「よみ人しらず」歌は四百八十首にも及び、全体の半分に迫る。撰者たちは分量的にも「古」と「今」、「よみ人しらず」と「有名歌人」のバランスを取ろうとしたことが窺われる。――
「よみ人しらず」として名を消されてしまった歌人たちの中で、おそらく猿丸大夫は傑出した存在であり、せめてもの配慮として序文に名が書き留められたのではないでしょうか。
もとより定家は『三十六人歌仙伝』も『袋草紙』も読んでいたでしょうし、そもそも歌の家に生れた彼が猿丸大夫についての口伝を知らなかったとは考えられません。定家は「奧山に…」の一首を、往古の伝説的大歌人猿丸大夫の真作と信じて疑わず、小倉百首の中に撰び入れたに違いないのです。
【なぜこの一首】
[LINK] (禺画像]) さて本題に入る前に、しばし「猿丸大夫」(正しくは「さるまろのたいふ」と読みます)という面白い名について考えてみましょう。
『続日本紀』には「柿本佐留(さる)」の名が見えますし、上代、牛とか鹿とか動物の名を付けた人名は珍しくありませんでしたから、猿丸という名も特別変わった名とは言えないでしょう。「丸」は人名につけた「まろ」の宛字で、後世「まる」と読むようになります。奈良時代までは成年男子の名に「まろ」を付けることが流行ったのですが、平安時代以降は廃れます。「大夫(たいふ)」は高位の男性官人の称。ただし真名序においては「柿本大夫」と一対の称とも見え、すぐれた歌人に対する敬称の意を帯びたかもしれません。
猿丸大夫――それにしても出来すぎの名ではあります。その名自体が《都に仕えてある程度の出世をし、その後猿のごとく山中に隠れ住んだ、古い時代のすぐれた歌人》をあらわし得るのですから。
百人一首の歌は、そうした猿丸の人物像を象徴するような一首と言えましょう。
古今集では秋上の巻に載り、あとに鹿と萩を取り合わせた歌が続くので、この「もみぢ」は萩の黄葉です。『定家八代抄』では秋下に載せますが、「下もみぢかつ散る山の夕時雨濡れてや鹿の独り鳴くらん」と「秋萩にうらびれ居ればあしびきの山下とよみ鹿の鳴くらん」に挾まれており、定家もやはり「もみぢ」を萩の下黄葉と解していたことが知られます。萩は花が散って間もなく下葉から黄に色づき始めます。
| 禺画像] 萩の下黄葉 |
秋気ようやく深まる奧山に、黄葉した萩の下枝を踏み分けながら、妻を恋うて鳴く鹿の声が響く。一抹の華やぎを含んだ寂寥感のうちに、秋という悲哀の季節の真髄が歌い上げられています。深山の住人である「猿丸大夫」という名をもついにしえの隠逸歌人の作として読む時、一首の興趣はまた格別のものとなりましょう。