夜道を歩いてゐて、沈丁花の香りに驚かされることの多い時節になつた。梅は風でも吹かないと匂ひが届かないけれど、この花の香り高さには風も不要だ。
ヂンチヤウゲ科の常緑灌木。最初の一字を濁らず「ちんちやうげ」とも言ふ。大陸から渡来したのは室町時代・江戸時代両説あるやうだ。漢名は瑞香。丁字草(ちやうじさう)、芸香草(うんかうさう)の名もある。花を付けず「沈丁」とも呼ぶ。沈香(ぢんかう)・丁字(ちやうじ)の香を兼ねるのでこの名があるといふ。
花は外側が紅紫色で、内側が白い。全体が白い花もあり、白花(しろばな)沈丁花といふ。
紅い蕾の間にぽつりぽつり白花がひらき始めた頃の色合は殊に美しい。尤も、その頃はまださほど強い芳香は漂はせない。
この花を詠んだ歌は、江戸時代以前には見あたらない。近代以降は盛んに詠まれ、佳詠も少なくないだらう。
『常磐木』 佐佐木信綱
若き日の夢はうかびく沈丁花やみのさ庭に香のただよへば
大正十一年(1922)、歌人五十歳の作。「夢はうかびく(浮かび来)」に対して「沈」む花、美しい字面も巧みに活かした、優婉な歌だ。
『橙黄』 葛原妙子
沈丁の瓶を障子の外に置き春浅きねむり邃(ふか)くあらしめよ
匂ひに過敏な人、あるいは眠りの浅い人には、沈丁花の香りは睡眠を妨げるほどなのだらうか。しかし遠ざけたくはない、だから「障子の外に」置く。昭和二十五年(1950)刊、第一歌集より。
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『山河』 金子薫園
沈丁花雨しめやかにいたる夜の重き空気のなかににほへり
『路上』 若山牧水
沈丁花青くかをれりすさみゆく若きいのちのなつかしきゆふべ
『無憂華』 九条武子
沈丁花(ちんちやうげ)はなの香たかき曲廊(きよくらう)におきてもみばやまぼろし人(びと)を
『朝雲』 岡麓
沈丁花白きつぼみはうす色の黄ばみさびしくおもほゆるかも
『短歌行』 山中智恵子
そのはじめしられぬことのはるけさに白(はく)沈丁花夜思ふ花