白氏文集卷五 永崇裡觀居
2010-08-01


永崇裡(えいすうり)の観居(くわんきよ)  白居易

季夏中氣侯  季夏(きか)中気(ちゆうき)の侯
煩暑自此收  煩暑(はんしよ)此(これ)より収まる
蕭颯風雨天  蕭颯(せうさつ)たる風雨の天
〓聲暮啾啾  蝉声(ぜんせい)暮に啾啾(しうしう)たり
永崇裡巷靜  永崇裡(えいすうり) 巷(かう)静かに
華陽觀院幽  華陽観(くわやうくわん) 院(いん)幽(かす)かなり
軒車不到處  軒車(けんしや)到らざる処(ところ)
滿地槐花秋  満地(まんち)槐花(くわいくわ)の秋
年光忽冉冉  年光(ねんくわう)忽ち冉冉(ぜんぜん)
世事本悠悠  世事(せいじ)本(もと)悠悠(いういう)
何必待衰老  何ぞ必ずしも衰老(すいらう)を待ちて
然後悟浮休  然る後に浮休(ふきゆう)を悟らん
眞隱豈長遠  真隠(しんいん)は豈(あ)に長遠(ちやうゑん)ならんや
至道在冥搜  至道(しだう)は冥捜(めいしう)に在(あ)り
身雖世界住  身は世界に住むと雖(いへど)も
心與〓無遊  心は虚無と遊ぶ
朝飢有蔬食  朝飢(てうき)蔬食(そし)有り
夜寒有布裘  夜寒(やかん)布裘(ふきう)有り
幸免凍與餒  幸ひに凍(とう)と餒(たい)とを免(まぬか)る
此外復何求  此の外(ほか)に復(ま)た何をか求めん
寡欲雖少病  欲を寡(すく)なくして 少しく病むと雖(いへど)も
樂天心不憂  天を楽しみて心憂へず
何以明吾志  何を以てか吾が志(こころざし)を明かさん
周易在床頭  周易(しうえき)床頭(しやうとう)に在(あ)り

【通釈】晩夏も中気の候となり、
暑苦しさもこれから収まってゆく。
物寂しい音を立てて風が吹き雨が降り、
夕暮になると蝉の声が盛んだ。
永崇坊の路地はひっそりとして、
華陽観の中庭は奥深く静まっている。
馬車が乗りつけることもなく、
あたり一面槐(えんじゆ)の花が咲いている。
歳月はたちまち過ぎ去り、
世の雑事はもとより限りが無い。
人生無常を悟るのに、
わざわざ老衰を待つ必要があろうか。
真の隠逸は決して遠い彼方にあるのでなく、
まことの道は何処までも捜し求めることにある。
この身は俗世間に住むといえども、
心は虚無と遊ぶ。
朝の空腹には粗末な野菜の食事があり、
夜の寒さには綿入りの着物がある。
さいわい寒さと飢えは免れている。
これ以上に何を求めよう。
欲を減らしているから、少々病気があっても、
天命を楽しみ、心は憂えない。
どうやってこの我が志を証明しよう。
周易の書が、常に寝床のほとりにある。

【語釈】◇季夏中気 季夏は晩夏(陰暦六月)、中気は大暑にあたる。2010年の大暑は7月23日。◇啾啾 蝉の声の多いさま。◇永崇 長安の永崇坊。◇華陽観 代宗の五女、華陽公主の旧宅。白居易は元〓と共にここに住み、制科の受験に備えていた。◇軒車 身分の高い人の乗る車。馬車。◇冉冉 次第に進んでゆくさま。◇浮休 人生のはかないさま。荘子に拠る。◇冥捜 奧深く探究すること。◇虚無 道家の言う虚無。有無相対を超越した境地。◇朝飢 朝の空腹。◇蔬食 野菜ばかりの粗末な食事。論語郷党篇に見える。◇布裘 綿入りの着物。◇餒 飢え。◇周易 易経。陰陽説を基に天地の現象を明かし、吉凶禍福の循環を説く。◇床頭 寝床のほとり。

【補記】永貞元年(805)、友人とともに長安の華陽観に住み、制科の受験準備をしていた頃の作。作者三十四歳。「蝉声暮啾啾」あるいは「蕭颯風雨天 蝉声暮啾啾」を句題とする和歌が見える。

【影響を受けた和歌の例】
くれはどりあやにくに降る夕立にぬれぬれはるる蝉の声かな(慈円『拾玉集』)


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[和歌に影響を与えた漢詩文]

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