千人万首 烏丸光広 恋
2014-09-23


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寄夕恋

形見とも思ほへなくに来し時と夕べの雲ぞ面影に立つ(慶長千首)

「忘れ形見だとも思えないのに、あの人が来た時刻というと、夕方の雲がありありと見える気がすることよ」。
恋人と最後に逢った時、空には印象的な美しい夕雲がかかっていた。訪問が絶えた今でも、同じ刻限になると、その時の雲が心にはっきりと想い浮かぶ、と言う。それが忘れ形見だとも思えないのに。いや、思いたくないのであろうか。
『古今集』墨滅歌「こし時と恋ひつつをれば夕暮の面影にのみ見えわたるかな」(物名・一一〇三、貫之)から詞と設定を借りて、雲を形見とするやや常套的な趣向を絡めた形であるが、「面影」を恋人のそれから雲のそれへと移したところにも工夫はある。「思ほへなくに」の否定がまた切ない。
慶長千首の恋二百首はすべて寄題。「寄夕恋」は鎌倉初期から見える。

寄松恋

ならはしと松にはかぜの音信おとづれをしらずや人はゆふぐれの空(黄葉集)

「ただの慣わし事と思って、あの人は気づいてくれないのか。松には風が訪れて音を立てる、夕暮の空よ」。
松風の寂しい音が響く夕暮時、恋人もこの響きを聞いているだろうに、訪問を待つ者の心には思い至らないのか、いくら待っても来てはくれない。
「おとづれ」の原義は「音連れ」という。これと「松」「待つ」の掛詞を風に関わらせた趣向は古くからあるもので、特に新古今の頃には例が多い。光広は語の配置、句と句のつなぎに心を尽し、詞が滑らぬよう抑えて、曲折豊かに歌い上げている。

恋の歌の中に

まぼろしのうき世の中に人恋ふる心ばかりのまことなるらん(黄葉集)

「幻のようにはかない浮世にあって、人を恋する心ばかりが真実なのであろう」。
一転、率直な述懐の恋歌。「心ばかりの」は「心ばかりが」の意。「や」でなく「の」と言い切ってくれたのが嬉しい。
「まこと」は「真事」であり「真言」。夢まぼろしでない、ありのままの事実であり、また嘘いつわりのない情、誠意。
黄葉集巻六恋部巻末。因みに千六百余首を収めるこの集にあって、恋の歌は百三十余首という少なさである。

余録

  寄雲恋
ひと筋のおもひよいかに時の間の立ゐにかはる雲をみるにも

[千人万首]

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