定家はこの歌を『定家八代抄』『近代秀歌(自筆本)』『詠歌大概』に撰び入れており、非常に高く評価していました。また「秋山はもみぢ踏みわけとふ人も声きく鹿の音にぞなきぬる」などと本歌取りしており、愛誦歌の一つとしたに違いありません。その意味で百人一首撰入は当然と言える秀歌ですが、ひとつ気になるのは、百人一首と『百人秀歌』でこの歌の配列が異なることです。
再び最初の十人を表に掲げてみましょう。
| 百人一首 | 百人秀歌 | |
| 1番 | 天智天皇 | 左に同じ |
| 2番 | 持統天皇 | 〃 |
| 3番 | 柿本人麿 | 〃 |
| 4番 | 山辺赤人 | 〃 |
| 5番 | 猿丸大夫 | 中納言家持 |
| 6番 | 中納言家持 | 安倍仲麿 |
| 7番 | 安倍仲麿 | 参議篁 |
| 8番 | 喜撰法師 | 猿丸大夫 |
| 9番 | 小野小町 | 中納言行平 |
| 10番 | 蝉丸 | 在原業平朝臣 |
五番目の歌人から百人一首と『百人秀歌』の配列が食い違いを見せ始めるのです。
古今集真名序は猿丸を六歌仙以前の人、『猿丸大夫集』後書などは元慶(877〜885年)以前の人とし、歌風(漢詩文の影響下にある「悲秋」観念など)からして奈良朝まで遡り得る人ではありません。であれば家持・仲麿より後、業平などより前とする『百人秀歌』の方がむしろ正当で、時代順のはずの百人一首の並び方は不審です。あるいは百人一首の編者は平安末期に唱えられた猿丸大夫=弓削皇子説(『古今和歌集目録』)や高市黒人の妻説(『袋草紙』)などに影響されて、猿丸を奈良朝の二歌人より前に置いたものでしょうか。『百人秀歌』もおおよそは時代順の配列を守っているので、百人一首と『百人秀歌』の各最終編集者が異なる史観の持ち主であった可能性が考えられます。
しかし結論は急ぎますまい。この件は別の機会に考察を進めることとしましょう。
また、『百人秀歌』における参議篁との合せは大変興味深いものですが、その点についても篁の章に譲りたいと思います。